起業と人脈−起業に人脈は大事か?

大きなビジネスをやるには強力な人脈が有利である。
「起業には人脈が重要」という話をよく耳にするが、起業家が大きなビジネスへ踏み出す際には、強力な人脈がついていることが多い。

▼ 実例

井深大
東京通信工業(現:ソニー)を設立した際、その社長には、井深の義父の前田多聞(元文部大臣)、顧問には前田の友人の田島道治(宮内庁長官)、その紹介で会長には万代順四郎(三井銀行会長)がついた。
その他にも金融界に強力なコネを持っていた(万代は三井銀行の幹部連中に事実上「命令」してソニーに出資させたと言う)。
そして共同経営者である盛田昭夫の父は、代々酒造業を営む愛知県有数の資産家であった。

孫正義
もともと人脈があったわけではないが、学生時代自ら発明した多国籍翻訳機をシャープに売り込んだ際、佐々木正(当時専務)にその人柄を気に入られ、以後数々の人々の紹介を受ける。
ソフト販売を開始する際には、当時日本最大のパソコン専門店を開いていた上新電機社長浄弘博光や、これまた当時日本最大のソフトハウスだったハドソンの工藤裕司(当時社長)に気にいられ、日本最大のソフト流通会社への足がかりをつかんだ。
孫がアメリカに留学する折(高校生のとき)に、多忙なマクドナルドの藤田田に執拗に電話をかけ、面会に行った話は有名である。

堤康次郎
早大在学中に、ときの総理大臣桂太郎の新党結成運動に参加している。
なんら経歴や背景のない堤は、宴会の末席にあってもスピーチに工夫を重ね、桂の面識を得ることに成功している。桂はまもなく他界したが、桂から後藤新平(満鉄総裁、東京市長)、そして後藤からは実業家の藤田謙一の紹介を受けている。
また、早大教授永井柳太郎に師事し大隈重信と知り合いになっている。
そして、こういった人脈が軽井沢開発、政界出馬のきっかけとなっている。

五島慶太
五島が鉄道省を辞めて、武蔵電気鉄道という会社の常務に転進したが、経営に頓挫していた。
こうした中、田園調布の開発を行う渋沢栄一がはじめた田園都市会社の交通を担う鉄道会社に五島をスカウトしたのが、小林一三である。
小林の斡旋で五島は目黒蒲田電鉄の設立に参画する。
これが現在の東急のはじまりである。
五島は、これ以後鉄道経営については小林に教えを請うようになった。住宅開発、東急百貨店は小林の手法を真似たものである。
さらには 、小林の斡旋で慶応大学の一部を東急沿線の日吉に誘致することにも成功した。

小佐野賢治
小佐野賢治が東都乗合自動車(現:国際興業バス)の権利を譲り受けたのは五島慶太からである。
知り合いの代議士から「五島慶太が強羅ホテルを売りたがっている」という情報を得て、小佐野は五島の家を訪問し、初対面の五島相手に大勝負に出た。
五島は、目の前の粗末な背広を着た若い小佐野が、名門ホテルを買収するという話を信じられなかった。
五島は500万以下では売らない、現金で翌日までに代金を用意することを条件とした。
翌日約束どおり、小佐野は現金を用意すると、トランクから札束を取り出し積み上げて、五島にこう言った。
「わたしのような若造が、大それたことを、とお叱りを受けるかもしれませんが、天下の五島さんが強羅ホテルを手放されるということは、よほど金が大変だったのでしょう。ついては550万円で買わせてください。私のご挨拶のお土産代わりです。」
小佐野は五島の足元をみて値切らず、1割のせてみせたのである。
それから、なにかにつけて五島は小佐野を可愛がり、 五島から数々の便宜をうけるようになった。
<大下英治「梟商―小佐野賢治の昭和戦国史」より一部引用>

浅野総一郎
当時廃物であったコークスの燃料化に成功し、既にかなりの儲けを出していた浅野総一郎は、同じく廃物の利用に苦慮していた東京ガスの渋沢栄一と出会う。
この渋沢は当時の日本経済界のドンである。
渋沢との出会いによって、国営深川セメント(現在の太平洋セメント)払い下げのきっかけをつかむ。

稲盛和夫
稲盛は独立を決意した際、元上司青山政次(後の京セラ社長)の紹介で配電盤メーカーの宮木電機の社長宮木男也以下役員からの出資を受けた。
京セラ設立時の社長は宮木、専務が青山、稲盛は取締役技術部長だった。

根津嘉一郎
根津を、東武鉄道をはじめとする「鉄道王」と異名をとる飛躍のきっかけとなったのは、同じ山梨出身の「明かりとのりもの(電力と鉄道)」に注目させた若尾逸平、相場師という虚業から実業への転進をすすめた雨宮敬次郎といったような、いわゆる「甲州財閥」の先輩の助言によるところが大きい。
若尾に初めてあった頃には、根津は実家の油商の家督を継ぎ、既に地元の名士、高額納税者として有名であった。

小林一三
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の設立は三井銀行時代の人脈がフル活用されている。
まず、元上司の岩下清周(当時北浜銀行頭取、元小林の上司)の強力なバックがあった。
また岩下の紹介で財界の重鎮が役員として参画しているほか、三井物産常務飯田義一の厚意により機械材料代金は2年の延払いにしてもらっている。
事務所も小林の元上司の平賀敏が経営するセメント会社の2階を間借りしている。なお、平賀敏は、同社の監査役でもある。
小林も三井銀行を脱サラする前から、上司には気に入られていたことになる。

▼ まとめ

一歩大きなビジネスに踏み出すためには強力な人脈があることが、資金調達や取引の拡大といった面(要するに信用の観点)から有利に作用する。起業家は飛躍のきっかけとして強力な人脈をてこにしているようにも見える。
ただし、重要なことはこういった人脈を築くには、縁戚にでもそういう人がいない限り(縁戚にいたとしてもであるが)、人一倍の熱意と少々の地道な実績が欠かせないと言うことである。

 

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