根津嘉一郎(ねづかいちろう)

▼ 略歴

1860年
(万延元年)
 
山梨県生まれ(幼名栄次郎:次男)。
1889年
29歳
油屋の家督を継ぎ、嘉一郎を襲名。
1891年
31歳
山梨県会議員当選。
1893年
33歳
村長就任。
1897年
37歳
村長を辞任し上京。株の相場師として名を馳せる。
1899年
39歳
東京電燈(現:東京電力)監査役就任。
1901年
41歳
東京商工会議所議員、東京米穀商品取引所理事。東京馬車鉄道(現:東京都交通局)監査役。
1902年
42歳
東京電燈常務取締役。
1904年
44歳
衆議院議員当選。
1905年
45歳
東武鉄道社長就任。
1906年
46歳
東京鉄道(現:東京都交通局)取締役。日本第一麦酒(現:アサヒビール、サッポロビールの一部)社長。
1908年
48歳
館林製粉所(現:日清製粉)社長。
1909年
49歳
渡米実業団に加わりアメリカを視察。大富豪が社会に寄付を行う行為に感銘を受ける。
1912年
52歳
高野登山鉄道(現:南海電鉄)社長。
1922年
62歳
旧制武蔵高校(現:武蔵大学)設立。
1923年
63歳
富国徴兵保険(現:富国生命)社長。
1926年
66歳
貴族院議員。東京電燈をめぐる三井、三菱、安田との対立(いわゆる「東電騒動」)から取締役辞任。持株も売却。
1927年
67歳
南朝鮮鉄道社長。東京地下鉄道(現:営団銀座線)取締役。
1940年
80歳
逝去。

▼ エピソード

■ 東武鉄道をはじめ数々の鉄道を手がけ「鉄道王」の異名をとる
■ もともとは相場師であったが、同郷の山梨出身の先輩若尾逸平、雨宮敬次郎の教えを受け、株の大暴落で持株がボロになったのを機に実業界に転進
■ 「ボロ買いちろう」と言われながらも、東武鉄道をはじめ数々の会社の建て直しに成功
■ 富国生命の小林中(後の富国生命、アラビア石油社長)、日清製粉の正田貞一郎(後の日清製粉社長)、大日本麦酒の山本為三郎(後のアサヒビール社長)などの後輩も育成する。
■ 学校の設立、橋の架橋、美術品、骨董品の収集(現:根津美術館)など社会貢献にも力を注ぐ

▼ 人物関係表

雨宮敬次郎 「相場師」根津に実業界への転進を進める。
藤原銀次郎 1926年の東電騒動で三井家代表の藤原と激しく対立。
渋沢栄一 根津が実業界で飛躍するきっかけとなった有力実業家の集まり「有楽会」のメインメンバー。1909年の渡米実業団の団長が渋沢栄一。

▼ 参考文献

■ 世渡り体験談(根津嘉一郎)
■ 小説東武王国(若山三郎)
■ RAILWAY100東武鉄道が育んだ100年(東武鉄道)
■ 20世紀日本の経済人2(日本経済新聞社)
その他一般的な参考文献

   

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