井深大
井深が東京通信工業(現在のソニー)を設立した折は、日々の稼ぎにも窮したが、持ち前の技術力(当時から井深は天才技術者と言われていた)を元に、ラジオの修理、電気座布団(ソニーで最初にヒットした製品なのだ!)などの製作を手がけ、生計を立てていた。
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孫正義
孫は、学生時代自ら発明した「多国籍翻訳機」をシャープに売り込むことに成功し、1億5,000万円を手にしていた。
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堤康次郎
堤が30歳で代表的ビジネスである軽井沢開発に着手する頃には、すでに郵便局、鉄工所、ゴム製品の工場等を経営していた。巨額の用地買収資金についても、堤自らが用意したといわれている。
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浅野総一郎
浅野は、地元富山での事業に失敗し、夜逃げ同然での上京した。
上京後、まず手がけた商売はお茶ノ水の「水売り」だ。これは大成功だったが、秋になり水が売れなくなった。
すると今度は味噌を包む竹の皮を売り、さらには薪→石炭と商売を順調に拡大しかなりの資産を築いた。
当時廃物だったコークスやコールタールまでも販売してしまい、ついには官営深川セメント(現:太平洋セメント)を国からの払い下げを受けてしまう。
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藤田田
藤田は、東大の学生時代CHQの通訳からスタートし、ユダヤ人の米兵と知り合い、商売を始めた。
やがて、藤田商店という貿易会社を設立し、ハンドバック、宝石とビジネスを拡大していた。
外国との取引で着実に信用を積み、やがてマクドナルドの日本での権利を得た。
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小佐野賢治
小佐野は、二等兵として中国で従軍していたが、負傷により除隊となった。
のちに軍需省に駆け込み、自動車部品の販売を行い、巨万の富を得たと言われている。
戦後間もない頃の名門ホテルの買収や東都乗合自動車(現:国際興業バス)の譲受も、この資金があればこそである。
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安田善次郎
安田は、両替商での奉公から独立し「安田屋」を開業した。元手は奉公しながらためた25両であった。
安田屋は奉公時代に金銀品位の鑑定に熟達しており、贋の貨幣がさかんに鋳造された幕末には重宝され、独立後も威力を発揮した。
さらに、両替屋と一緒に海産物と卵を兼業していたが、この販売も両替商時代に経験しており、販売自体も大盛況だったという。
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稲盛和夫
稲盛が、独立して京都セラミック(現:京セラ)を設立する際、元上司の紹介で資産家から資金を工面してもらう折には、「男が男に惚れる」魅力が稲盛に備わっていたようだ。
ただし、稲盛自身もセラミックスの技術者として周囲の注目を集める存在であったし(セラミックス自体の利用価値は当時まだ未知数だったが)、独立前の職場で彼がリーダを努めていたプロジェクトは、既に順調に推移していた。
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松下幸之助
松下が独立したときの資金は当時のお金で90円。
ソケットの研究に着手し、4ヵ月後ようやく満を持して商品化にこぎつけたが、ほとんど売れず窮状極まり生活費にも事欠くほどだったという。
ところがふとしたことから、扇風機の碍盤の見本の受注を受け、1,000枚を何とか完成させ80円の利益をあげた。そしてこの商品がよい商品と評価をもらい、続けて2,000枚の受注を受けた。
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