信念の力−頑固なまでの意志

起業家は周囲の反対など気にも止めない。
よく成功には「信念」が不可欠と言われる。
真の成功者は信念を貫き通しどんな状況にも輝かしい未来を信じて突き進むという。
誰でもできると思うこと、誰もがよいと思うことでは偉大な事業は築き得ない。
偉大な起業家は自らの事業に対し、どこまで強い意志を貫き通したのか。

▼ 実例

鈴木敏文
今から30年以上前の1971年頃のこと、イトーヨーカ堂の取締役に就任したばかりの鈴木敏文は、アメリカで見たコンビニエンスストアという業態が日本でも当たると確信した。
帰国後、早速このビジネスをやることを社内で提案したが、鈴木の確信とは裏腹に周囲の大反対にあった。
しかし持ち前の粘り強い意志で反対する人々を説得し、創業にこぎ付けることができた。
創業時の状況がいかに困難なものだったかは以下にあげることからもわかる。
@当時は薄利多売のスーパー全盛で、高いものを少量販売するのは小売のセオリーに反していた。
A専門家の目からも、事業性があるか不透明だった。
B事業資金は会社からは半分しか出してもらえず、自分で残りを用意しなければならなかった。
C人の手当ても十分にしてもらえず、素人の寄せ集め集団しか構成できなかった。
そして、忘れてはいけないのが、
D鈴木自身、言わば「サラリーマン」であるのにもかかわらず、敢えて創業というリスクをとった。
創業後も、鈴木の既存常識にとらわれない発想には、そのたびに周囲の反対の声があがったが、この発想の積み重ねで構築された事業がコンビニ最大手のセブンイレブンである。

小倉昌男
運送会社を経営していた小倉が、1975年頃個人向けの荷物宅配サービスという企画をスタートさせようとしたとき、役員全員の反対にあった。
当時トラック運送といえば、メーカーの製品を店まで運ぶといった商業貨物運送しかなく、家庭向けの配送は郵便局の小包しかなかった。
しかも、小包は採算がとれないのか何度となく値上げを繰り返していた。
個人を相手にすると、どこからいつ荷物(しかも小口)の依頼がくるかわからないし、どこまで運ぶか予測がつかない。手間を考えれば、それを手がけることは赤字を背負い込むのに等しい、というのが当時の常識であった。
小倉は、「個人向けの需要は大きいはず」という信念を持って事業に邁進していった。
こうして生まれたヤマト運輸の「宅急便」はいまや生活に根付いている。

豊田喜一郎
豊田が昭和のはじめ、国産自動車製造を決意したときの状況は次のようなものであった。
@当時自動車は、フォード、GMといった輸入車が全盛で、国産自動車はほとんど皆無であった。仮に国産車を作っても、性能、価格いずれの面からも輸入車にはかないそうになかった。
A自動車製造には部品のひとつひとつまで高度な技術を必要とされるが、当時の日本の技術はそのほとんどが未成熟であり、一層の技術の向上が必要とされた。
B自動車製造には巨額の資金を必要とされ、当時豊田家が手がけていた紡績、自動織機までも潰してしまう恐れがあった。さらにリスクの高さから、当時の三井、三菱といった財閥すら二の足を踏むビジネスであった。
これらの障害をもろともせず、豊田は国産自動車製造が日本の将来に不可欠と考え、狂信的なまでの情熱を傾けていき、トヨタ自動車を設立することになった。

本田宗一郎
本田も、繁盛していた自動車修理業に見切りをつけて、ピストンリングを製造する東海精機(現在はトヨタに売却)のときも、会社の誰もが反対した。
本田は一度言い出したら聞かないたちであったという。

渋沢栄一
渋沢も一度こうと決定した上は、決して心を迷わさなかったという。
国家公共のために尽くすのが渋沢の天からの使命と考えており、国家のためには何事も辞さない覚悟を持って、事に当たり、たとえ失敗してもそれは天命とあきらめていたという。
渋沢が、500を超える企業の設立に奮闘し、困難にもめげなかったのはこの信念によるものである。

小林一三
小林は、駅のターミナルにデパートを開設したパイオニアである。 
昭和のはじめまで、百貨店(三越、松屋等)は、わざわざ送迎バスを駅から店まで走らせていたが、それでも大繁盛していた。
小林は阪急は一日十数万人の乗降客がいるのだから、駅を通るときに何か買い物はするだろうと考えたが、研究、調査しても鉄道会社が百貨店をやっている前例がない。
百貨店経営者に相談しても「素人は止めた方がいい。」と反対される。
しかし、当たるという自信は、試験店舗での成功という結果につながり、阪急百貨店は今日のターミナルデパートの原型となったのである。
今でこそ、私鉄が百貨店を経営するのは普通のことになっている。

孫正義
孫は、まだ人々がパソコンに触ったことのない時代に、パソコンのゲームなどができるプログラムが印刷されたパソコン雑誌の将来性を確信した。
人の紹介で大手書店の役員に会うことはできたものの、日本の取次店(出版の卸問屋)の制度すら知らなかった。取次店と取引できないと、事実上書店に本が流通しないのである。
孫は、この役員にパソコンの将来性を語り、紹介してもらうことを懇願した。
まだ表紙も素人の同人誌でしかないこの雑誌で、懸命に説得して、結局大手二大取次店(トーハン、日販)に対し、たった一日のうちに、口座を開かせることに成功したという。
口座を開くことさえ、困難な状況からすると、これは通常あり得ないことである。
そしてこの雑誌は飛ぶように売れた。

藤田田
藤田田もマクドナルドをやるときは、周囲に大反対された。
メインバンクには「水商売をやる会社とは付き合えない」と絶縁され、百貨店に出店依頼をしても「パンに毛が生えたものは売れない」と笑われる。
ようやく銀座三越のスペースを得るも、「3週間でつぶれる」といわれていた。
藤田には、米食・魚食からパン食・肉食へ時代が変わりつつあること、日本人は舶来物に弱いことを心得ており、実際マクドナルドは日本最大の外食チェーンへと成長した。

増田宗昭
増田は、TSUTAYAの強みは何百店という店舗ネットワークから生み出されるネットワークヴァリューだと言っている。
いまでこそ、店舗と本部をネットで結び、売れ筋等の情報を収集し、新しい企画を生み出していくモデルは普通になっているが、増田は1985年まだ「TSUTAYA」のフランチャイズが1店舗もない頃に、この可能性を直感したそうである。
当時資本金100万円の会社なのに、情報収集用のコンピュータに1億円を投資するという決断を下している。

▼ まとめ

やはり、偉大な起業家の信念の強さは並大抵のものではないことがよくわかる。はじめは笑われようが、困難にぶちあたろうが、最後まで意志を貫き通すことが成功の絶対条件といえる。
しかし同時に、その意志の強さは決して頑固さとかではなく、綿密に計算された調査、鋭い人間への洞察によりもたらされた確信に裏付けられていることも忘れてはならない。

 

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