生死の境−起業家が病気に直面したとき

全ては、生死をどう受け止めるかである。
起業家の中にも、不治の病を患い生死の境をさまよった人は意外に多い。
絶体絶命のピンチに直面しても、問題はそれをどう受け止めるかである。

▼ 実例

藤田田
高校時代、当時不治の病であった肺結核を患った。医者にも余命2ヶ月と診断されたことがある。
このときを振り返って、著書で以下のように記している。
「狭い視野で見るから悲観してしまうのだ」
ピンチを脱して考えてみると、自分では絶体絶命と思ったことがそうではなかったこと、事実はひとつでありそれをどう捉えるかが大切だということに気付いた。360度あらゆる角度から人生を捉えればこれで終わりと言う発想にはならない。終わりだと思っても挑戦するのが人生だ。終わりでなく新たな人生のはじまりだと考えるべきである。<藤田田「超常識のマネー戦略」より一部引用>

稲盛和夫
尋常高等小学校時代やはり肺結核の初期症状肺浸潤になっている。家の離れにいた叔父(結核で死亡)のように助からないかもしれないとすっかり意気消沈したが、病床で隣の奥さんからもらった谷口雅春の「生命の実相」をむさぼり読んだ。
「われわれの心のうちにそれを引きつける磁石があって、周囲から剣でもピストルでも災難でも病気でも失業でも引き寄せるのであります。」
稲盛は、自分は離れの前を通るとき、鼻をつまんで通るくらい気にしていたのに病気になった。一方父は、自分が結核になっても自分の弟である叔父の面倒を見ると覚悟決めているのに、結核にはならない。
これについて稲盛は「結核を気にする心が災いを呼び込んでいるのではないか。献身的に看病する覚悟を決めた父には病気がよりつかない。こころのありようを考えさせられた。」と語っている。

大川功
大学卒業後に肺結核にかかり、なんと8年間もの闘病生活を余儀なくされている。
大川は「人に遅れてしまった」という意識が強く残ったが、闘病によって得たものが2つあったという。
1つは、「このまま死ぬのはあまりにももったいない。」「もっと、勉強したい。」という意識だという。がむしゃらに本をむさぼり読んだ。
もう1つは、死に直面して自分の人生や社会に対するスタンス、姿勢を学んだと言っている。

松下幸之助
20歳前後の頃、肺尖カタル(肺結核の初期症状)になり、勤めていた会社も(当時は日払い制、保険制度もないため、)休むわけにもいかず、食べるのにも困る状態となる。
この状況で、松下は病気になったのも自分の運命と腹をくくって、可能な限り養生しようと考えたという。
その後不思議なことに、病気は悪くなるどころか、若い頃より健康になり、94歳まで生きている。
松下は著書「人生心得帖」の中で「運命ならばこれに逆らわず、修練の場だと思って積極的に病気と付き合い、仲良くしようと努めたことがよかったのでは」と言っている。

堤康次郎
堤は昭和18年前立腺肥大、膀胱結石になった。当時は医学技術も進歩しておらず、治す術がなかった。溜まった尿で尿毒症を起こし死にいたる恐れすらあった。
いっそ贅沢三昧をしようかと思い悩んだ堤だったが、ひとつの光明を見出したという。
著書「苦闘三十年」の中でこう記している。
「どうせ死ぬと決まったら、死の刹那まで働こう。働いて働いて働きぬこう。長からぬ生命を人のため、世のため、国のために使い果たそう。徹底的な奉仕あるのみだ。他人がやれないという仕事を、やってやってやりぬいて、はなばなしくこの世にお別れをしよう。
この考えに達すると、不安やあせりといった精神的な悩みから解放されたという。

孫正義
会社設立直後、難病のB型慢性肝炎を宣告され3年半の闘病生活を余儀なくされる。
はじめは落ち込んだ落ち込んだ孫だが、司馬遼太郎の「竜馬が行く」に出会う。
この小説で「人生は長さではなく、何に命を捧げるか」ということに気付いたという。
前向きな気持ちになった孫は、「神が与えた、いい休息なのだから」と4000冊もの経営書、歴史書を読みあさったという。

▼ まとめ

起業家とて人間であるから、死に直面すれば誰でも落ち込む。一生これで終わりかと悲嘆にくれる。
しかし、それだけでは終わらないところが普通の人と違うところである。死に直面して生への渇望、人生とどう向かい合うのかについて考え、そして答えを出している。
闘病期間は孫の言うように「神が与えてくれた休息期間」なのかもしれない。

 

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